自分を愛する…の自分って誰?

よく、"自分をもっと愛しましょう"と

聞いた事はありませんか?

 

もし、暗い気持ちでいたのなら…

『え、こんなに凹んでる私なんて愛せないわよ。。』

もし、怒りが収まらない時なら…

『ふざけるな!こんな自分が好きになれる訳ねー!』

 

と、感情にのまれてしまうのではないでしょうか。

 

自分を愛する、の"自分"とは、、

『本来のあなた』の事だと思うのです。

 

その『怒り』はあなたはですか?

その『悲しみ』はあなたですか?

 

100%違うのです。なぜなら、本来のあなたは光そのものだからです。

 

生きていると、人は本当に気付かないうちに、"自分では無いもの"を拾ってしまっている事がとても多いのです。

 

本来のあなたは、光であり、愛そのものなのです。だから、"自分を愛してください"ではなく、

 

"自分が愛である事を思い出してください。それ以外はあなたではありません。"

 

こちらの方が、しっくりと来るのです。

いかがでしょうか?

知らぬ間に自己否定??

最近誰かを羨ましいと思った事、ありますか?

あんな事が出来ていいなぁ。

自分も出来たらいいなぁ。

 

…これって、すでに自分には出来ないと決めつけてしまっていますよね…

 

何気なく思ってしまう事の中に、小さな自己否定があると思いませんか?

 

じゃあどうすればいいのか…思っちゃうものは仕方ない!

 

なので、あの人こんな事が出来て良いなぁ!その良さ、素晴らしさに気が付く事が出来たのだから、必ずその要素が自分の中にもあるのだという事。間違いありません。

 

良いと思えた自分を褒めて、そのために出来る事を探しましょう。

出来ないと決めつけるのは明らかに早すぎるのです。

 

 

傷つく経験の理由は?

自分なんて…

どうせ…

といった想いは、確実にそれを見せつけてきます。

凄くいい加減に扱われたり、裏切られたり。

人として見てもらえなかったり。

…それはもう悲しくなって、誰かに慰めて欲しくなるほど。

 

でもね。

 

誰に慰めて貰ったら満足しますか?

 

…多分、他のどんな人に慰められても傷は癒えません。

 

自分で、自分を認めて、謝って、許して、

愛してあげるまでは…

 

苦しいけれど、気がつくまで続きます。

 

この悲しくなる原因は、"相手"ではなくあなたです。

どうせ自分なんて。どうでもいい。

自己評価も低く、自己肯定すらしてあげない。いじめにいじめ抜くような否定的な気持ちを持っていた自分自身なのです。

 

まずは、誰かに慰めてほしいとしたら、どんな言葉をかけてほしいか想像してみてください。

 

そして、その言葉を自分で、過去の自分に向けて愛を込めて伝えてみてください…

もちろん簡単にはいかないかもしれないけれど、ずっと待っているはずです。

 

 

 

 

 

神様は、自分の中に…

 

神様が自分の中にいると自覚するならば…

 

身体は清く保つであろう。

 

汚れた言葉は慎むであろう。

 

それこそ、大事に扱うであろう。

 

人から言われる言葉を、己の身体に簡単に取り込む事もない。

 

神殿を美しく保つ為に、磨き続けるであろう。

他に対しても、その想いによくよく気をつけるであろう。

 

自分大事にとどまらず、周りに愛で接するであろう。

 

逆に、、

己が神と離れた存在だと信じれば信じる程、自らを邪険に扱い、汚れさえも気にせず、言葉にさえ気をつけない。怒りや悲しみにのまれても、気にすることすらしないであろう、、

 

どちらが良いかは選ぶ事ができるのだ。

 

そういうことである。

怒りと共に

 

今日は、やたらと、些細な事でイライラ。

次第に何に怒っているのかさえ、わからない程にイライラした感情に飲み込まれていく…

 

これは霊障なのか?とも考えてみるが、

考えただけでは、やはりイライラは止まらない。

 

まぁ、そんな時もあるか。と、イライラしながらも同時にその感情を観察し続けた。

…案外、ムスッとして黙り込んでいたせいか仕事はいつもより集中出来るし、早く終わった。

 

結局何が大元の原因かはわからなかった。(というか、正直、怒りの原因を探る気力があまり無かった…。)なので、元気な時に再度内観してみよう。

 

何となく思い当たるのは、

最近、様々な有益な情報を聞いたものの、頭のみで理解して、実際はあまり上手く実現出来ていない自分の現状に腹が立ってしまったのかもしれない。

そんな時もある。この出来事を認め、生かして次へ進もう。

 

観察していてわかった事は、

とにかく怒りのエネルギーはとてつもなく破壊的で、一気に巨大化してしまう。頭でいくら抑えようとしても、なかなか難しいものなのだ。

ただ、観察し続ける事しか出来なかった、という事。

もちろん、怒りが"真我"では無い事は明らかであるが、なかなか簡単に脱ぎ捨てる事もできなかった。

 

ひとまず、しっかりと風呂で温まり、落ち着いたようだ。

 

それではまた。

 

 

 

 

 

真我で生きる・自我(エゴ)の脱ぎ捨て

容姿、年齢、経験、によって出来上がった思考や感情の癖、そして様々な思い出や記憶…

果たしてこれらは本当の自分なのだろうか?

これらを脱ぎ捨ててしまったら、一体何が残るのだろうか…。

 

これまでの自分像を脱ぎ捨てて、

真我で生きる事を目的としたブログを始める事に致しました。

自分を客観的に眺める作業の一つであり、人に何かを伝えるものではありませんが、もし面白いと思って貰える方がいたのであれば、それはそれで嬉しいと感じます。

 

それではまた。